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ギターを弾いたら楽器店!

 私が楽器店をはじめたことは、今思えば不思議な話です。何故なら、身内に特別音楽を志す人も、音楽的素養のある人も皆無でしたから。実際、私にとって一番身近な父。良英の愛唱歌は、軍歌・戦友、母・みちは、文部省唱歌・箱根の山といった位で周囲の環境に音楽に関した本格的なものは何一つありませんでした。

 それが、父の死後、名瀬の栄町(現・末広町)で経営していた呉服店を閉じ、その店舗を名島時計店に貸した頃から変化が生じてきました。そこの22,3歳になるご主人の名島義仁さんが、毎日、暇さえあれば、ギターを弾いていたのです。彼は、ハブに足を咬まれてビッコをひいていた為、兵役を免れたのですが、日本は若者を巻き込んで戦争に突入してゆく、そういった不安な時代でした。

 だからこそ、ギターが奏でる優しい音色に心惹かれていったのでしょう。当時、旧制大島中学校の2年生だった私は、名島さんのギターが鳴りやんだ時に急いで借りに行き、彼の真似をして爪弾いたものでした。中学時代の3年間と、卒業後、昭和22年の6月頃にギターを買って後、25年までの3年間は、大変ギターに熱中できた時期でした。こうして、いつのまにかギターを弾くことは私の趣味になっていました。

 この年は、私は闇商売で口之島に出向き、本土から来る品物と奄美からの黒砂糖の交換などを行っていました。取引の時意外は、この島はひっそりとしていましたので、暇つぶしにと持参したギターを、毎日弾いていたので、少々目立った存在だったのではないでしょうか?
 内地からハーモニカやギターの弦などが届くと、
「音が出るものは、指宿のところに持って行け。」
という図式が自然に出来上がってしまい、音楽関係の品は、いつしか私の管轄になってしまいました。

 そういえば、内山商事の内山正七(しょうしち)さんも、1台の自転車を購入したのが元で自転車屋を創業することになったのですが、お互いにそのキッカケは、ほんの些細な事であったように思えます。

 その後、鹿児島県本土との商売は、見つかったらすべて没収とリスクが大きかったので、自由に行き来することが出来る沖縄に自然と気持ちが傾いてゆきました。