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NHKのラジオ放送開始

 この年、名瀬市でもNHKのラジオ放送を聴く事が出来るようになりました。それまで日が暮れるまで外で遊んでいた我が家の息子たちもラジオの連続ドラマを聴くために、夕方にはラジオの前で待ち構えていました。ラジオを聴くその集中力にも驚かされましたが、【緑のコタン】【宇宙から来た少年】【一丁目一番地】などの番組を通して、奄美しか知らない彼らの世界がぐっと広がったように感じられました。

天才唄者・武下和平さんの録音

  武下和平(たけしたかずひら)さんは、瀬戸内町加計呂麻(かけろま)島(諸数・しょかず)ご出身で、前述の福島幸義(こうぎ)さんの甥にあたります。昭和34年頃、古仁屋(瀬戸内町)に出て来て大工をしていましたが、すでに島唄上手と評判になっていました。ある時、入舟町(名瀬市)で土産物店を営んでいらっしゃった山田米三さんが名瀬の唄会に招聘しました。さすが、天才という呼び名にふさわしい歌声の持ち主で、あっという間にその場の聴衆の心をつかんでしまいました。


続きは下記書籍「大人青年」よりどうぞ
大人青年

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武下和平傑作集CD収録曲
朝花/俊良主/くるだんど/やちゃ坊/かんつめ
マンコイ/東れ日ぬはる加那/糸くり/雨黒み
諸鈍長浜/むちゃ加那/長雲/曲りょ高頂
ちょうきく女/いそ加那/塩道長浜/ヨイスラ
行きゅんにゃ加那/御枕/豊年節/嘉徳なべ加那/いまぬ風雲 他

奄美大島青年会議所発足

 奄美大島青年会議所の発足は、鹿児島銀行鹿児島本店から大島支店に転勤して来た浜崎勝治さんと鹿児島の風月堂という大手製菓会社の川畑さんという方が持ってきてくださったお話が発端でした。その2人が、前田信一君、笠井俊也さんを呼んでこれを検討し、さらに私の弟の健七を加えて話しを煮詰め、あれよあれよという間に、美佐(みさ)利雄君や私など、約30名のメンバーで名簿まで作成して、立ち上げてしまいました。

 初代理事長は、楠田豊春(くすだとよはる)さんにお願いしようと、健七と前田信一君が交渉にあたり、承諾してもらいました。
健七が実行委員長となり、6月27日に名瀬市金久町の遺族会館(現・屋仁川駐車場の場所)にて会員45名で発起会を行い、奄美大島青年会議所が発足しました。

自衛隊機らんかん山へ墜落

 9月3日16時55分、名瀬市矢之脇(やのわき)町のらんかん山へ、海上自衛隊鹿屋(かのや)基地を飛び立った対潜哨戒機・P2Vネプチューン(海鷲)が墜落、炎上しました。ものすごい爆発音に私たち市民はびっくりし、現場へ向かいました。山はものすごい黒煙で完全に隠れてしまいました。この事故で、搭乗員12名と山腹で農作業をしていた方1名がなくなりました。自衛隊機の超低空飛行が原因となり、そのため、らんかん山へ激突したようです。

 鹿児島県立大島病院(通称・県病院)で輸血を必要とした妊婦を救うため血液を落下傘で投下した後の出来事でした。私どもと同世代の隊員たちの不慮の事故は他人事ではありませんでした。
発足したばかりの我ら青年会議所は、彼らの功に報いたいと活動を開始し、その体を成してゆきました。

《追記》
くれないの塔建立・横当島の石

 翌38年10月2日、自衛艦「いすゞ」「もがみ」(いずれも1490トン)が来島。3日、午前7時打ち上げ花火、9時から10時まで自衛隊音楽隊による市中パレード。10時半から12時まで遺族の市内見学、12時から14時半まで遺族会館にて追悼式を行いました。

 自衛隊機の墜落現場に建立した「くれないの塔」という鎮魂の碑の除幕式を、同機が墜落した時刻(16時55分)に行い、遺族代表の方による除幕のハサミが入れられました。

 除幕式には防衛庁から、井原防衛庁長官、次官をはじめ海上幕僚長、鹿屋航空隊関係者25名のほか亡くなった隊員の遺族42名、そして佐世保自衛隊の音楽隊24名が参加しました。空からはP2Vネプチューン3機が参加し、名瀬市の全市民はサイレンを合図に1分間の黙祷を捧げました。のどかな名瀬市で起こった、その痛ましさゆえに忘れられない出来事です。

 名瀬港から北西に30キロの洋上の横当島(無人島)は、その海岸周辺に波で磨かれた丸く美しい石が沢山ありましたので、それを採ってきて、くれないの塔の周辺に敷き詰めようと話しました。実行の当日、秋の海は荒れていて、船酔いしたり、重い石を担いでの坂の往復は大変なものでした。メンバーは、美佐利雄君、前田信一君、渡建設の渡武彦さん、私の4名でした。

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