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田端義夫と島育ち記念碑

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 昭和37年に、バタやんこと田端義夫さんが東京・新橋の沖縄料理店で耳にし、心がしびれたというその歌は、実は奄美で戦前から愛唱されていた【島育ち】でした。
昭和34年にセントラル楽器店で製作した大島ひろみさん(本名・宝井充美たからいまさみ)の歌う島育ちのレコードを聴いたのがブームのきっかけでした。

 昭和14年に生まれたこの曲は、作詞を手がけた有川邦彦さんが病床で島育ちのレコード化を夢見ながら、果たせず亡くなったというエピソードを持っていました。作曲者の三界稔先生のことは、前述の通りです。
 
 昭和37年から、田端さんがレコードを出し、精力的に歌い始めた島育ちは、年が明けてもその勢いは衰えず、島の内外でこの歌に関するニュースが流れ続けました。
 3月30日、31日には、地元奄美大島の名瀬市においてセントラル楽器店と南海日日新聞社の共催で、田端義夫ショーの公演を行ないました。
ファイル 50-1.jpg この頃は、まだ奄美空港は開設されていず、田端さんの一行は、鹿児島港から客船・八坂丸で14時間も揺られて名瀬港に到着しました。港では大勢の島民が出迎え、沿道は、1万人の人手(名瀬警察署の調べ)で賑わいました。この熱烈な歓迎振りには、彼らの疲れも吹き飛んだのではないでしょうか?

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正調・永良部百合の花

 島育ちの大ヒットで、一連の奄美新民謡が全国的に脚光を浴びた年でもありました。今まで奄美だけの宝だった歌を、全国の人が聴いて、歌うようになったのです。

 私の好きな曲のひとつに永良部百合の花がありました。昭和の初期に百合の球根が生産過剰となり値崩れを防ぐために海に捨てたという事ですが、士気高揚のために徳之島の地謡に新たな歌詞を付けて歌いはじめたのが、この歌でした。

 当時の1、2番の歌詞は昭和6年頃に山口禎善(ていぜん)さん、3、4番は、後年武田恵喜光(えきみつ)さんが作ったものでした。島内で歌う歌詞はそれでもいいのですが、内地相手には、沖永良部の位置を明確にし、観光の対象になる美しい海や名所を盛こまなくてはいけません。


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NHKのテレビ放映はじまる!

 この年の夏から、名瀬市を中心にNHKテレビジョンの試験放送が頻繁に行われはじめました。現金なもので、昨年までラジオの前に釘付けだった息子たちは、もう見向きもしません。我が家でラジオが脚光を浴びたのはたった1年でした。

 さっそくわが家でもテレビを購入しましたが、モノクロの画面に息子たちはまたまた夢中でした【夢で逢いましょう】【若い季節】【事件記者】【花の生涯】【チロリン村とクルミの木】【たまゆら】などなど、子供向け、大人向けという内容は関係無しに、ただ映像が動くのを観ているだけで楽しかったようでした。テレビのある家庭や電気店の店頭に人が集まっていました。大人も子供もテレビが珍しかったのだと思います。翌年は東京オリンピックが開催されるという事もあり、番組に少しづつカラー放送が増えてゆきました。

 ラジオやテレビが入って、奄美群民の娯楽の質が大きく変わりました。参加型のものから受身のものへと変質したのだと、今なら判ります。テレビを通して島外へと視野も広がりましたが、そのために私たちが見失った奄美独特の文化、その代償は、とてつもなく大きかったように思えます。

島唄研究の虫、小川学夫さんとの出会い

 晩秋のある日、東京から1人の男性が私を訪ねてやって来ました。早稲田大学文学部の大学院生で名を小川学夫(おがわひさお)さんといいました。彼は、昭和36年に九段の青年会館で行われた文部省主催の民俗芸能大会で奄美の八月踊りを見て、すっかり魅了されてしまい、それが高じてこの土地にやって来たとの事でした。現地調査を行なうための足がかりとして、まず大島支庁を訪ねていったら、南海日日新聞社を紹介され、そこの社長の村山家国(いえくに)さんに、
「島唄ならセントラル楽器店の方がいいだろうから、そちらを紹介してあげよう。」
小川青年は、こうして当社へやってきたわけですが、私は
「うちでは、大学院生を雇ったことがないから・・・。」
と一度はお断りしました。しかし、彼は諦めません。
「給料は要りません、使って下さい!」
と申し述べ
「ただし、島唄の取材は自由にさせて下さい。」
と、はっきり言い切ったのでした。

 私は、商品の荷造り、配達、集金など何でもやるという条件で彼の月5千円の下宿代を引き受けることにしました。そうして、翌・昭和39年4月、小川青年は奄美大島へやってきました。彼の来島早々に、私は奄美民謡研究所を社内に開設しました。年齢こそ違え、島唄を熱心に追求する同士が出来て、私も張り切っていました。研究所の事業目的は、
1 奄美全域の民謡のテープ収集。
2 民謡のレコード化による対外的啓蒙。
3 民謡による口承の調査および文献の収集と出版。
 顧問として、奄美民謡保存協会長の牧義盛氏、協賛員として次の方たちにお願いしました。
 大島教育事務局の原田平二氏、町村長会々長の朝山玄蔵氏、奄美大島商工会議所専務・有川清蔵氏、名瀬市長・大津鐵治氏、徳州新聞社々長・小林正秀氏、大島新聞代表・平川国高氏、和泊町長・武田恵喜光氏、県立図書館奄美分館長・島尾敏雄氏、青年会議所理事長・大野貢氏、名瀬市商工水産課長・大山麟五郎氏。

 さて、小川青年の実際の仕事振りは、本当に熱意にあふれたものでした。私が何か指示を出したら、すぐさまメモ帳に書き込み、必ず結果報告までしてくれる理想的な社員でした。彼があまりにも出来の良い社員であったため、給料を上げようと話しましたら
「私はそれだけの仕事をしていませんので結構です。」
と断られました。それでもあまりにもよく働いてくれるので彼専用の新品自転車をプレゼントしましたが、当時の名瀬市内の道路は未舗装状態で、外勤から帰ってきた彼の自転車は見事に泥だらけになっていました。かつて自転車屋を開業していた私には【汚れた自転車に乗る】ということに耐えられず、彼に掃除するように言いました。
「エッ、自転車って掃除をするものなんですか?」
そのような意外そうな言葉が返ってきました。それで、特別念入りに自転車の清掃を彼にして見せましたら、以降、彼の自転車はいつ見てもピカピカの状態、本当に抜群の実行力を持つ男でした。
 余談ながら、支払いの悪い暴力団員の所へ集金に行かせたら、彼の理路整然とした説明が良かったのか、全額回収して帰って来ました。とにかく、彼に頼んだ事は、速やかに実行して報告がなされるのだという安心感がありました。

 また、彼が来島してまだ2ヵ月にもならない頃、この年の東京オリンピック女子水泳の選手たちの強化合宿が奄美で行われました。名瀬市が入舟町にあったやしま食堂の大広間に選手たちを招待しました。この時、市の商工観光課長だった真鍋松男さんが、激励挨拶の話題に唄者の武下和平(かずひら)さんの合い方として同席していた小川さんを名指しで、
「ここにいらっしゃる小川学夫さんは北海道のご出身で、今年の4月に来島してから今日まで、まだ45日しか経っていないのに奄美の島唄をずいぶんと歌えるようになりました。選手の皆さんも、小川さんくらい努力をなさったらオリンピックで必ず優勝できると思います。」
とおっしゃいました。それから武下和平さんが島唄を歌い、小川さんが囃子を務め拍手喝さいだったことを覚えています。

とにかく熱心な男で、島唄の録音を行なったら、それを一晩中聴いて記録を取ったり、唄の成り立ちなど根堀り葉堀り私に質問したりするのです。あまりの彼の熱心さに、私は会社に2段ベッドを買い入れ、夜を徹して問いかける彼の島唄学習のお相手をしたりしました。いつの間にか、島唄について私と彼の立場は逆転し、しまいには、小川さんを抜きに奄美の島唄は語れないというまでになっていました。

 翌・昭和40年3月にセントラル楽器店を退社した彼は、徳之島の歌や踊りの調査のために、徳之島町亀津に移り住み、ここで英語塾を開きながら、徳和瀬在住の郷土研究家・松山光秀さん(当時、徳之島町役場勤務)の協力を得て、精力的に活動しました。

 昭和46年3月に奄美大島に戻ってセントラル楽器に復職し、昭和52年の3月までの6年間、島唄だけでなく、ヤマハ音楽教室などの多方面の経営に参画してもらいました。

 私が、冠婚葬祭の挨拶やいろんな講演を頼まれた際、彼にその趣旨さえ話しておくと私の思ったとおりの原稿を作ってくれ、大いに助かりました。また、後述します田辺経営の会や色々なセミナーなどに常に同行していましたので、私の考えを100%把握していて、社の方針発表会の原稿作成から島唄大会の参加者募集・会場の使用交渉、その他、なんでも企画立案してくださいましたので、私はただOKを出すだけで大変助かりました。こうして、わが身はひとつでありながら小川さんのお陰で2人分の大きな仕事が出来た時期でもあり、私はいつもその後姿に最敬礼をしておりました。

 昭和63年3月、彼は鹿児島市内へ移住。その後、学習塾の講師を経て、現在鹿児島純心女子短期大学の教授として教鞭を執っています。

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