記事一覧

新感覚、大島ひろみさんの島唄

 大島ひろみさん(本名・宝井充美:たからいまさみ)は、神戸生まれでご両親の故郷(宇検村阿室)である奄美大島に3歳の時、帰郷。高校を卒業するまで名瀬で過ごしました。
 彼女は幼少時から、童謡よりも大人の歌を好んで歌っていたそうです。中学卒業の昭和34年に、名瀬で行なわれたのど自慢大会で見事優勝しました。それが契機となり、当社で島育ちなどの新民謡のレコーディングを行いましたが、それは前述の田端義夫さんのお話につながります。


続きは下記書籍「大人青年」よりどうぞ
大人青年


ファイル 58-1.jpg【大島ひろみ傑作集カセットテープ収録曲】
一切(ちゅっきゃり)/三下がり節/夕凪/かんつめ
スラユイ/長雲/嘉徳(かどく)なべ加那
朝花/行きゅんにゃ加那
糸くり/徳之島節/くるだんど
らんかん橋/いそ加那/塩道(しゅみち)長浜
(全14曲)

オルガン売り上げ、ホープ店グループで九州一になる

 3月12日は、大げさではなく、セントラル楽器の将来を決定付けた特別な日となりました。前年5月には、
「奄美を音楽の花園にするんだ」
と志に燃えて、ヤマハ音楽教室を立ち上げ、1年近くの間に生徒も徐々に増えて表面上は順調に見えましたが、それでも何か物足りないのです。
 それを気付かせてくれたのは、福岡県柳川(やながわ)市に拠点を置く、中山楽器の中山社長でした。彼は、日本楽器九州支店(現・ヤマハ(株))特約店の中のホープ店というグループの会長さんでもありました。

 九州支店から頂いたデータでは、柳川市の人口は、私の住んでいる名瀬市とほぼ同数、中山楽器と当社の投下資本も同じくらい、経営者の年齢も同じくらい(中山さんが2歳若い)。なのに、オルガンの売り上げ台数は、当方が月に1台、あちらが50台という現状でした。この50倍もの差は、どこからくるのでしょう?
 そんなことを考えていたら、日本楽器九州支店・ホープ店グループの会が博多でありました。私の店は、その下のランクのフレッシュ店グループでしたが、当時の担当が私の中山楽器に対する熱意を汲み取って特別に招待してくれました。その上、宿泊した旅館も中山さんと相部屋にしてくれるという念の入れようでした。
 中山さんの考えは、
「いくらレッスンを受けても、自宅に練習用のオルガンが無くては効果が出ないので、うちの生徒さんには、楽器をお世話させていただいております。」
というものでした。1台と50台の差は、ものの考え方だったのでした。
 身近な例として、私の二人の息子たちにヴァイオリンを習わせたことがありましたが、週1回のレッスンの時以外、大事なヴァイオリンだからと、彼らの手の届かないタンスの上へしまいこんで使わせませんでした。そのため、全く上達せず、そのうち
「上達しないのは、才能が無いからだろう。」
と諦め、ヴァイオリン教室も辞めさせました。でも、私のこのような考え方が間違っていたのです。
 
 私は中山さんと知り合ったこの機会に
「ぜひ、奄美に、名瀬にいらっしゃって、私たちにいろいろとご指導下さい。」
と一生懸命頼み込みました。こうして彼が奄美へやって来たのが、前期の3月12日でした。
 この日は、たまたま、瀬戸内町古仁屋(こにや)小学校の俵(たわら)先生という方からピアノの注文をいただいていて、土砂降りの中、中山さん、調律師の田畑明夫(めいお)君、私の3人で納品をしました。納品後、早速、調律が始まり、俵先生の奥さんとお隣の奥さんが珍しそうに眺めていました。そこに、当時、幼稚園児だったお嬢さんが帰ってきました。彼女は、すでにピアノが入る事を知っていて、大層喜んでいました。中山さんは、
「お帰りなさい。お譲ちゃん、お名前は何というんですか?お年はいくつですか?」
ひととおり尋ねた後、ヤマハ音楽教室の開講の時に話す【七つのお約束】を要領よく説明しました。

「ピアノを弾く前には、手をきれいに洗いましょうね。」
とか、
「上手になるために、毎日練習しましよう。」
といったものです。それらの説明を聞きながら、お譲さんのハキハキとした
「ハイ!」
という返事が気持良く返ってきます。それらは、私が見る初めての光景でした。中山さんの話し振りに、ひたすら感心するばかりで声もありませんでしたが、そこで敢えて彼を真似てお嬢さんの相手をしてみましたら、後で田畑君が
「中山さんがやるとスマートでいいけど、うちの社長がやると体がこそばゆくなるからよせばイイのにと思いました。」
と私に言いました。
「田畑君、人がやっているのを見て感心するだけじゃあダメだ!確かに我々がやっても中山さんの10分の1程度かもしれないが、とにかく実行する事だ!」

 俵先生ご夫婦も中山さんのお話に感じるものがあったのでしょう。先生が、雨の中ビールを買って来ました。奥さんは、クリスマスケーキのような大きなお菓子を買って来て、私たちに
「どうぞ、どうぞ!」
と勧めました。また、この時、俵先生は、よほど感動なさったご様子で
「私の同僚で『ピアノが欲しい』と言っている人がいますから、明日、セントラル楽器さんへ電話連絡しますね。」
と、おっしゃいました。

 この話で中山さんが私たちに与えた感動の大きさがお分かりいただけるでしょうか?彼の奄美滞在中に私たちが教わったのは、これまでの、ただ【楽器を売るだけ】から、【お客様のTPOに応じた音楽の楽しみ方、鑑賞の仕方、利用の仕方までご相談にのれる、いわば音楽のコンサルタントにならなければいけない】という事でした。
 私は、今までの自分の考え方をすべて棚上げし、中山さんのおっしゃるとおりに行動しました。すると、その年の5~7月に行ったヤマハ販売キャンペーンで早速結果が出ました。中山楽器に次いで、オルガンの売り上げ台数がホープ店グループで九州で2位になったのです。

 表彰式で同席した中山さんに
「どうも、このたびはご指導ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。」
とお礼を言ったら、
「もうカンベンして下さい!今回セントラル楽器さんと競争して、とっても疲れました。」
楽器セールスの先輩としては、おいそれと後輩に抜かれるわけにも行かず、これは大変なプレッシャーだったことでしょう。
 翌年、昭和44年の1月から12月までにオルガンを1044台(月平均87台)を売り上げました。その実績が日本楽器に評価され、中山楽器の所属するホープ店グループを飛び越して、選抜特約店グループ(九州で18店)の仲間入りを果たしました。
 やる気はあっても、そのエネルギーをどのように活用したらよいか全く分らなかった我が社にとって、中山楽器は、かけがえのない師でした。

ページ移動

  • 前のページ
  • 次のページ