【奄美の美空ひばり】と言われた上村藤枝(かんむらふじえ)さんは、笠利町崎原(さきばる)のご出身で奄美群島の日本復帰前に、前述の南政五郎さんと共に精力的に島唄を唄って群島内を廻り、奄美で彼女を知らぬものは無いというほどの唄者でした。
母親が唄者であったせいか、9歳の頃にはすでに20曲以上のレパートリーを持っていたということです。昭和36年には、東京で行われた文部省主催の民俗芸能大会に出場。昭和38年には、同じく東京で行われた奄美群島日本復帰10周年の記念式典に招かれ、その美声で郷土からの参加者を魅了しました。
戦後、上村さん御一家が神戸に移り住んだこともあり、その近況などキャッチしにくくなっていました。そのため、島唄ファンから上村藤枝さんのレコードを作って欲しいとの強いご要望があったにもかかわらず、実現までにかなりの時間を費やしてしまいました。
その録音は、兵庫県の尼崎で行ないました。上村さんは、たいそう喜んで、徳之島の井ノ川のご出身の徳久寿清(とくひさじゅきょ)さん宅で唄遊びをしました。
「もう歌はそれくらいにして、あとは本番のためにとっておきましょうよ。」
と言う私たち録音スタッフに、すかさず、上村さんが、
「いいえ、私は歌いこんだほうが声が出るんです。」
などというやりとりがありましたが、結局、相方の三味線・東金二(あずまきんじ)さんを加えて夜が明けるまで彼女は歌い続け、とうとう、翌日の録音本番時には全く声が出ない状態でした。
「これはしまった!」
と思っても後の祭り。だからといって、奄美に戻るのも億劫だったので小川さんと二人、東京まで行って、2、3日暇をつぶし、上村さんの喉の回復を待ちました。人の声は、消耗するのだなァとつくづく思ったものです。その時録音したものが、カセットテープとCDとして今も販売されていますが、これは、いつもの彼女の唄におよばないものでしたので改めて録音をしようと考えながら30年が過ぎました。
朝花(あさばな)/俊良主(しゅんりょうしゅ)
くるだんど/ゆんみやんみ
花染め/あまぐるみ/請けくま慢女(まんじょ)
嘉徳(かどく)なべ加那
太陽ぬ落て名残れ(てだぬうてなぐれ)
しゅんかね/やちゃ坊/らんかん橋/こうき
芦花部(あしけぶ)一番
上がれ日ぬはる加那/今ぬ風雲/六調
(全17曲)




