「はゲー なまド なあめチ いきゅンとろ ありョたんバ……。」
(嗚呼、今あなたの前へ行くところだったんです。)
右手を高くふりながら足早に歩み寄ってきたのは、村田実夫君であった。
「曲ぬでけりョたンちョ、聴しくれンしょしんニ……。」
(曲が出来たのですが、聴いてください。)
ところは名瀬市・大正寺まえの十字路。ときは昭和23年8月の某日。南海日日主催の第2回北部南西諸島音楽コンクールの開幕を目の前に、新民謡「農村小唄」の作曲が急がれていた。
―ちょうどよかった。大正寺には当時、市内には数少ないピアノが置いてあった。村田君は同寺幼稚園の第1回生だとかで寺とはこころおきない間柄、村田君の手がさっそくピアノの鍵盤のうえを走りだし、そしてくりかえされた。
「きゃしだリョン……?」
(どうでしょう?)
村田君の声にわたくしは、
「うン、……いける……いける…。」
とうなるばかりだったが、あのとき
「くりし、ゐッちャリョンにャ……?」
(これで、良いですか?)
と、体じゅうでダメ押しをし、そして微笑んだ村田君の顔をわたくしは今もありありと思い浮かべる。
村田君はその後「夜明け船」「本茶峠」等々と相つぐ力作を発表、その作曲活動は復帰後も精力的だったが、「夜明け舟」の思かげや白波…の「思かげ…」は島ンちゅでないと歌えぬとして、好んで自ら「夜明け船」を歌い、「思かげ…」にこころをこめているふうだった。今にして思うと村田君はうれしいとき、こころなごむとき好んで、また島ぐちをつかっていたようです。
「よねや、さんしんグヮだか、むっちきょンかなヨ…。」
(今晩は、三味線を持ってお伺いしますからね。)
村田実夫君を囲む歌の宴に、もうめぐり会うことができなくなってしまったけれど、村田君が残した数々の新民謡は、近代音楽芸術の系譜のなかに、島独特のリズムを生かしきったものとして、こんごも永く人びとに愛唱されるでしょう。
これは、同年8月9日に亡くなった村田実夫兄を偲ぶ「村田実男追悼演奏会」のプログラムに村山家國氏が寄稿してくださったものです。
実夫兄の多くの業績を讃えることよりも、この短い言葉のやりとりの中に、彼の人柄が偲ばれてなりません。全文を掲載させていただきました。
《追記》
平成13年8月26日、名瀬市の奄美文化センターにおいて「村田実夫メモリアルコンサート」を実施しました。メンバーは、実弟の村田正男さんを中心とした面々で、実行委員長に文秀人(かざりひでひと)さん、副委員長に元野景一さん、会計に瀧謙一郎さんと新民謡の大好きなメンバーを組織しました。
オープニングは、名瀬市合唱団、女声合唱団ラ・メール、アダン花のみなさんによる【名瀬セレナーデ】の合唱ではじまり、新民謡同好会やルリカケス・バンドによる実夫メロディの演奏、貴島康男さんの三味線と村田正男さんのピアノによる【夜明け船】、西川泰二さんと三島明子さんによるバイオリンとピアノのジョイントで【想い出の喜界島】、また名瀬市長(名瀬セレナーデ)、笠利町長(佐仁音頭)、龍郷町長(本茶峠)、喜界町長(想い出の喜界島)、宇検村長(農村小唄)などの5人の首長によるご当地ソングの独唱で、1800名の観客は村田メロディに酔いしれた2時間半でした。
昨今、島唄のイベントが多く行なわれ、どちらかといえば、新民謡やその作詞作曲者の扱いが小さかったので、市民に【新民謡】を再認識していただく良い機会にもなりました。
写真は昭和48年に私が安木屋場で写したものです。
素敵な笑顔をする実夫兄でした。