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終戦。 大口へ復員

 この年の8月15日を、私は熊本県水俣市の陸軍16760陸軍船舶暁部隊で迎えました。
 実際の戦争には参加しておりませんが、ひとつ前の部隊は全滅したと聞いておりましたので、向かいの天草へ何十回と行き来し行っていた演習は、真剣そのもので、出撃イコール死なのだと緊張した日々を送っておりました。
 部隊の中には水俣市内の窒素工場への奉仕活動を命ぜられ、不運にも、そこで空襲にあって亡くなった人もいました。

戦時中、国のために命を捧げよというお題目はありましたが、本音は誰だって死にたくなどなかったのです。終戦の日、
「これでもう、戦争なんかで死ななくて済む、人を殺めないで済む。」
という安堵の気持ちでいっぱいでした。
 
 私は11人兄弟(男9名、女2名)ですが、この男の兄弟9名が、戦争で一名も欠けることなくこの日を迎えることが出来たのは、毎週、神社巡りをし、手を合わせていた母・みちの祈りのお陰だと思っています。

 部隊はすみやかに解散し、仲間たちはそれぞれの故郷へと戻ってゆきました。
私は疎開していた母の住む大口市に復員しました。

大口市の浦田モータース

 大口市に浦田モータースというオートバイ店があり、機械いじりの好きだった私は、1年ほどここに勤務させていただきました。
 その間に、オートバイ、自転車の手入れ、修理、タイヤのパンク修理などの技術を身につけました。
 これは、後に鹿児島市内で商いをする際、大いに役立ちました。
 そうこうしているうちに、兄弟たちもこの大口市に集結してきました。

 《追記》
 浦田モータース時代の小生の日記より池島典夫さんが失敗談を探し出し。

 浦田鹿八社長から頼まれた郵便為替を紛失して、帰りそびれて大変困った事。それを拾った人が届けてくれた事。 普段厳しい社長がニコニコしながら、今後気をつけなさいよと優しく言って下さった事、等など面白おかしく、また昭和51年の夏、当時の大口市の通り会の方が約15名位で来島したので、バスを貸し切って島内を案内、バスでの池島さんのお喋りが島内案内と交叉し、皆さんが大変喜んで下さいました。
 夜は、大口小学校で音楽の先生をしていらした金井末男先生(奄美出身)も駆けつけて下さり、アコーディオンで合唱したり、楽しい一時を過ごしました。

山田米三さん

 私の勤務していた浦田モータースと同じ通りの30mほど先に、同郷・奄美のご夫婦が住んでいらっしゃいました。
 山田米三(やまだよねぞう)さんとおっしゃる宇検村湯湾ご出身方で、奥さんのサカエさんと一緒に当時は大口で氷屋さんを開いていました。

 憲兵あがりの彼は、その頃もまだ軍隊用の長靴を履き、大変いかつい格好をしていまして、初々しいサカエさんとは好対照でした。
 とにかく、この2人は、お人よしで、世話好きで、おしどり夫婦という言葉は彼らのためにあるのではないかと思えるほどの仲の良さでした。

 後に名瀬市の港の近く(入舟町)でニューグランドという名のお土産店を営むことになるのですが、米三さんは、写真撮影や島唄の大好きな方で、ニューグランドで制作した島唄レコードのジャケット写真は彼の手によるものがほとんどです。
 
 奄美の各集落に島唄上手がいると聞きつけると、録音機を持って走りました。彼の自宅には、その頃記録したテープが沢山ありました。
 昭和56年にサカエ夫人作詞、久永美智子さん作曲による【加計呂麻慕情】や【あゝ犬田布岬】などの新民謡が多数発表されましたが、これらの曲のカラオケ付きカセットテープを米三さんが制作しました。今も島内外で広く愛唱されています。
 
 晩年は、彼のジーンズ姿をよく見かけましたが、それがよく似合うモダンボーイでした。

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