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手頃な店舗

 1月には、福助マーケット(現・奄美交通向かい)に間口6・3mの手頃な店舗を構えるようになっていました。お隣の楠田豊春(くすだとよはる)さん(現・楠田書店会長)は、名瀬市役所の職員で、実家は酒屋(黒糖焼酎・弥生の特約店)をしておられました。酒の量り売りなどもやっていた時代です。
「ハイ!良彦さん。今日もお疲れ様。」
豊春さんに、毎晩のように差し入れのコップ酒をいただいていました。

バス運転手のボランティア

 この頃は、雑貨を含め楽器を扱いましたが、店名はまだありませんでした。
場所が、元の勤務先の谷本自動車の近くだったため、ある時、バスの運転手時代の友人に
「急用が出来た!すぐに戻って来るから、申し訳ないが俺の代わりにバスを運転していてくれ。」
と頼まれ、待てども戻らぬ彼に代わって、自分の店はほったらかしで半日間、塩浜町の築港から生産町(現・平田町)の農事試験場まで何度も往復しました。

 黄バスと呼ばれていたその頃の40人乗り位の市内バスは常に満員の状態で、これではいくら私に責任が無いとはいえ、運転をやめてバスを乗り捨てる事は出来ませんでした。
 勤務もテゲテゲ(いい加減)、今の世の中では絶対に許されない事ですが、こうした私の例に限らず、当時の不安定な名瀬の街は、お互いの人情に支えられて、なんとか機能していたのでした。
それは、奄美で【ユイワク】と呼ばれている互助の精神なのかもしれません。
 名瀬での最初の従業員は、15歳になる富山美保子さんという可愛らしい娘さんでした。2番目の従業員は隈元メリさんという17歳のしっかりした娘さんでした。

商品没収・店舗移転・店名流転

 9月15日、私を含めて闇商売をしていた森山、徳山、川畑、元野、英一兄の指宿商店など名瀬市の商店街の11軒は、軍政府にチリ紙ひとつ残さず、商品(アメリカ、日本、台湾製品)を没収されてしまいました。
翌16日には古仁屋の商店街6軒が同じ目にあいました。
「正規の貿易をひかえて、密貿易の疑いのある商取引を放任しておくのは良くない。」
という理屈でした。(新聞では九・一五旋風と名付けて動向に注目)
 
 本当のところは、増えてきた密貿易に対する牽制だったのでしょう。
しかし、正規貿易を早急に開始しないことには配給品だけでは暮らしてゆけません。私は店の場所をかえてこの商いを続けることにしました。

 11月14日に、天文館通り(現・奄美本通り)に「指宿楽器店」という店を構えましたが、まわりには中央会館、中央湯などがあり、翌月、それらにあやかって「中央楽器店」と名を変えましたが、それもしっくりこなかったので、そのまたひと月後には英語のほうがモダンでよかろうと、「セントラル楽器店」と改名しました。
 短期間に何度も屋号を変えて落ち着きがないようですが、その後は50年以上もほぼそのままです。
 
 ※厳密に言うと昭和42年に「店」をとりました。

ギターを弾いたら楽器店!

 私が楽器店をはじめたことは、今思えば不思議な話です。何故なら、身内に特別音楽を志す人も、音楽的素養のある人も皆無でしたから。実際、私にとって一番身近な父。良英の愛唱歌は、軍歌・戦友、母・みちは、文部省唱歌・箱根の山といった位で周囲の環境に音楽に関した本格的なものは何一つありませんでした。

 それが、父の死後、名瀬の栄町(現・末広町)で経営していた呉服店を閉じ、その店舗を名島時計店に貸した頃から変化が生じてきました。そこの22,3歳になるご主人の名島義仁さんが、毎日、暇さえあれば、ギターを弾いていたのです。彼は、ハブに足を咬まれてビッコをひいていた為、兵役を免れたのですが、日本は若者を巻き込んで戦争に突入してゆく、そういった不安な時代でした。

 だからこそ、ギターが奏でる優しい音色に心惹かれていったのでしょう。当時、旧制大島中学校の2年生だった私は、名島さんのギターが鳴りやんだ時に急いで借りに行き、彼の真似をして爪弾いたものでした。中学時代の3年間と、卒業後、昭和22年の6月頃にギターを買って後、25年までの3年間は、大変ギターに熱中できた時期でした。こうして、いつのまにかギターを弾くことは私の趣味になっていました。

 この年は、私は闇商売で口之島に出向き、本土から来る品物と奄美からの黒砂糖の交換などを行っていました。取引の時意外は、この島はひっそりとしていましたので、暇つぶしにと持参したギターを、毎日弾いていたので、少々目立った存在だったのではないでしょうか?
 内地からハーモニカやギターの弦などが届くと、
「音が出るものは、指宿のところに持って行け。」
という図式が自然に出来上がってしまい、音楽関係の品は、いつしか私の管轄になってしまいました。

 そういえば、内山商事の内山正七(しょうしち)さんも、1台の自転車を購入したのが元で自転車屋を創業することになったのですが、お互いにそのキッカケは、ほんの些細な事であったように思えます。

 その後、鹿児島県本土との商売は、見つかったらすべて没収とリスクが大きかったので、自由に行き来することが出来る沖縄に自然と気持ちが傾いてゆきました。

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