昔の島唄が残っている場所は?

昔のままの奄美島唄が、今も歌われている地域はどこかご存知だろうか?
答えのひとつにブラジルがあげられる。

奄美で歌われている島唄でさえ外界の影響を受け変化してきている今日、むしろ、奄美から遠く離れた土地で原曲に近い島唄が愛唱されているという現実に驚かされる。

故郷を後にした人々にとって、シマの記憶はその時のまま静止しているからだろうか。
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■南政五郎の影響

故・文英吉(島唄研究家)は、南政五郎(唄者)の影響で島内の唄者のサンシン演奏の終わりのスタイルが「タンタタタンタン・タタン」と、戦後画一化してしまったことを味気ないと嘆いたという。

是非を問うものではないが、これを機に個性的な多くの奏法が姿を消したのだとしたら寂しい事ではある。
故郷をこよなく愛した坂元豊蔵のサンシンと島唄は変わらなかった。

彼の島唄には、聴く人に昔の奄美を想い起こさせる魂(マブリ)が宿っていた。
当時上京していた奄美出身者たちは、彼の島唄を聴くと奄美に帰ったような思いがすると口々に言った。
彼にとっても島唄を歌うことは、自分が奄美の出身であるということの証明であったろう。

■プロフィール

坂元豊蔵は、宇検村芦検出身。警視庁に採用され上京。
NHKのラジオ放送で奄美の島唄を歌う機会を持つ。民謡はおろか奄美が全国的に認知されていない時期の出来事である。
後、島唄をレコード化。

文部省主催芸術祭に鹿児島県代表として出演。
同芸術祭に再度参加した際、自身の歌ったレコードが宮中に献上されたと聴き、感涙にむせぶ古き良き時代の漢(おとこ)だった。

余談ながら放浪の唄者・里国隆が、生前居を構えていた名瀬市永田町の市営住宅で、晩年の坂元は彼と唄遊びをしている。
風来坊と元警察官という奇妙な取り合わせだが、それがいい。

奄美の島唄はいつも人の心の垣根を取り払ってくれる。
昭和五十二年 病没 八十三歳。

<奄美島唄コラム | 縄文人のように生きる>