奄美新民謡とは?

■奄美の歌謡曲

大正末期から昭和初期にかけ、「新民謡」と呼ばれる牧歌的なご当地ソング作りが全国的なブームとなった。

曲名も、土地名に小唄とか音頭といった単語をくっつけた物が大半で、奄美の新民謡(大島小唄等)も、この頃、誕生した。

これは、奄美を題材にした歌謡曲と言って良い。
新民謡の呼び名は、当時、日本中で広く使われた。

■歌という垣根を越え

しかし、第二次世界大戦後、日本復帰を願った8年間(島かげ・農村小唄等)と、「島育ち」を呼び水とした奄美ブーム期(島のブルース等)の、3つの時代に愛唱され続けた新民謡は、もはや、歌の領域を超え、歴史となった。

昭和の時代を生きぬいてきた人たちにとって、新民謡を歌うことは、自分の人生を語ることでもあった。

しかし、ここへきて、その子供たちの世代があまりにも新民謡を知らなさすぎるのに驚かされる。
島唄との区別もつかないし、もちろん、歌ったこともないという。これは、一大事だ。

■島のアイデンティティ

この現象は、彼らが、単に歌を知らない、興味を持たない、という事にとどまらない。
なぜなら、奄美の若い人達の目が、中央の方を向いているからだ。
しかし、心の軸にヤマトを据えると、奄美は、日本国の一辺境にすぎないし、彼らも、時流に遅れがちな、いち地方の人になってしまう。

これでは、自分や郷土に誇りが持てまい。
生まれジマの文化に無関心である事は、大問題なのである。

奄美は断じて「日本列島の末端」でも、「日本文化の亜流」でもない。
我々は、まず、奄美人であり、しかる後、日本人なのだ。
日本や世界の歴史も大事だが、もっと大事で身近な島の文化や歴史が、あまりにも、地元の若手に伝えられていない。
親は子に島の昔を、もっと語っていい。

新民謡の需要は多い。
観光客、本土に住む地元出身者へのお土産など。
島唄と違い、標準語の歌詞が多いため馴染みやすいという事が理由のひとつである。
収録曲に島育ち、島のブルースなどの定番が入っていて受け入れやすいのだろう。

だが、新民謡は、懐メロではない。
新民謡は、戦後の日本復帰までの8年間で奄美だからこそ成し得た文化の一つなのだという事だ。

文化は、生活の中から生まれてきた。
昭和21年~28年までの間に日本本土からの文化情報がほとんど入って来ず奄美は、独自の文化を生み出していったのである。

■島かげ

昭和21年、奄美は沖縄とともに日本から切り離された。
そして、アメリカ軍政府による統治がはじまったのである。

「いつか日本に戻れたら・・・」という望郷の心が多くの名曲を生み出したのだ。
火付け役になった島かげは、復帰前に生まれた最初の曲であった。

■歌があった

日本復帰後、多くの歌が奄美に入って来て良い想い出となった。
でも、奄美の新民謡は、想い出の曲としてではなく、奄美で暮らした人々の人生の一部として心におさまっているのだ。

奄美の郡民の心がひとつになった時期の歌だからである。
だからこそ伝えたい真実の歌を・・・。

島かげ、農村小唄、名瀬セレナーデ、本茶峠、新北風吹けば、夜明け舟、そてつの実…そして、番外に日本復帰の歌・・・。

何もない、本当に何もない奄美だった。
でも、当時の人たちは豊かだった。
夢があった、希望があった、何よりも本当の歌があった。

■奄美のヒットソング

私たちが、先祖から受け継いだDNAには、海原に富を追い、紬で島を興し、花で世界を席巻しようとした人々の大きな夢が入っているではないか。
奄美(シマ)の美(キョ)らと思(ウム)いを次世代へバトンタッチするのが、私たちの役目。

この歌を歌っていた頃の奄美はね、と、奄美を語ろう、奄美を歌おう。
新民謡は、奄美の誇るヒットソングなのだから…。

<奄美島唄コラム | 村田実夫の世界>